[映画]ダ・ヴィンチ・コードを見て |
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2006年05月21日(Sun)
[映画]ダ・ヴィンチ・コードを見て
本日、流行りに便乗してダ・ヴィンチ・コードを見てまいりました。
今回のレビュー内容は、ネタバレなしです。むしろ、未見の方への予備知識として参考にしていただければ幸いです。 率直な感想をいいますと、『なかなか完成度の高い、娯楽性の高い映画』だなと思いました。 非常にスリラーで、サスペンスがあり、ヒロイックな物語であると。 それと同時に、これを劇場公開中止にしている国々の過剰な反応に冷笑してしまう作品であることもわかりました。 無論、小説と実在の人物や出来事を同等に論じ、糾弾するのはまさにナンセンスなものでしょう。 実在する団体や人物が出てくるから『神への冒涜』となるのでしょうか? もし、そうならば、正直、了見が狭いとしか思えません。 さらに、宗教は悪であると信じている日本人が多いことにもおどろきました。(最近ではオウム真理教などのカルト教団や、戦時中の神道などを例に挙げて) それを、語る上ではずせないこととして、歴史があります。 ------------------------------------------------- おいらを含めて、この世に存在する人には歴史があって、その歴史の中に存在しているのです。 では、その歴史とはいったいなんでしょうか?学校で習うものが歴史でしょうか?いや、それは正解でもあり、不正解でもあります。 そして、絶対的な、客観的な立場で、純粋に歴史を語ることは、不可能であり、それこそ神にしか為し得ないことでしょう。なぜなら、先ほど述べましたが、我々も歴史の一部だからです。 じゃぁ、そもそも歴史とはなんぞや?ということになります。 歴史とは、それは勝者の歴史であるからです。 特に、ヨーロッパでは、王位の神聖性を、正当性を立脚するためのよりどころとして、活用されてきました。 つまり、国の歴史であり、国王の歴史であり、彼のための歴史なのです。 英語で歴史とはhistoryと書きます。 これは、とどのつまりhis sitoryということです。直訳すれば、彼の物語ですね? ということは、彼ではない何者かの歴史もあったはずです。 ですが、それは、いわゆる我々の知る歴史から消されていきました。 なにも、西洋に限らず、中国の王朝により滅ぼされた国々や、我々の住む日本でもそれがあります。 そのような歴史はタブー(禁忌)なものとして、それを知る者は権威の前にはかなくも消されていきました。 そして、あるところではそれが伝説として、あるところではそれが昔話としていき続けたのです。人から人へと・・・ そこには、物語としての脚色がなされるでしょう。そのときの為政者の目から逃れるために言葉遊びのようなモノに姿を変え口伝で伝わったのもあるでしょう。 さらに、絵画としてその消された歴史が、後世に伝えられたかもしれません。 それを描いた物語が、このダ・ヴィンチ・コードといえるでしょう。 その、時の為政者から逃れるために、絵画という手法で、西洋では最大の禁忌とされている、人間としてのイエス・キリストを、そして、現存するキリスト教以外のキリスト教の在り処を示したダ・ヴィンチという解釈を、小説という形で世に広めた『ダ・ヴィンチ・コード』。 忘れてはならないことは、これが小説であるということです。 小説でありフィクションであり、研究書物としての権威ある論文ではないということです。 しかし、この小説が世に出、このような考え(=説、または論)が、実際、この世にあるということが注目されました。 それにより、いわゆる、学校で習うものだけが歴史ではなく、口伝、伝説、絵画、音楽、その他あらゆる形として語り継がれているのだということが認知されたことに、この小説の存在価値はあると考え得ることが出来るでしょう。 映画のほうは、確かに、興行的エンターテインメント性を求めるきらいがあります。 でなくては、収益につながりませんから。 もちろん、小説にも十分それはあります。 ということは、演出があり、脚色ももちろんあるでしょう。 過剰な演出、過剰な脚色になる場合もあるでしょう。 それは、すなわち、リアルではなく、限りなくリアルに近い虚構なのですから、これを一冊、あるいはフィルム一本を片手に、『神への冒涜だ』というのは、時代錯誤も甚だしいものでしょう。まさに、宗教裁判?魔女狩り?(笑) ------------------------------------------------- 世界三大宗教の一つ、キリスト教は、古くから、唯一神教としてユダヤ教から分派したものです。そこには、新約聖書(新しく契約された聖書の意)があり、それとともに、救世主であるキリストが起こした奇跡と、神の国への道をつづった、世界でもっとも読まれているベストセラー作品でしょう。 さて、では、このキリスト教はいつから誕生し、いつから今の形となったのでしょうか? これには諸説があり、どれも不明確で不明瞭なものばかりなのです。 なぜなら、現存する最古の聖書も、すべて、時の為政者により編纂された歴史の一部だからなのです。 そして、その聖書からもれた歴史は、黒歴史として、生きながらえ、また、それを崇拝する派が誕生し、時の為政者により、邪教、異端の宗教として、弾圧が繰り返されました。 カソリック教会は、他の教義を、異端として排斥し続けた時代がありました。 ------------------------------------------------- キリスト教の元、ユダヤ教、つまりキリストが誕生するもっともっと以前、紀元前何世紀と呼ばれた時代に、地中海を中心に誕生した信仰の一つでした。 宗教とは、そもそも、自然崇拝から、シャーマニズムへと変貌し、自然の摂理とともに、人としての生きるべき心のよりどころが描かれていました。 それを、いまでいう「あるあるネタ」で広く民衆に伝え、教え歩き回った人たちが伝道師(この場合、キリスト教ユダヤ教などの伝道師という意味ではなく、教えを伝える者という意)として広めていったのです。 なんぴとにもわかりやすく、善行愚行を示し、本能とは真逆の理性という形で、人が人であることそのものの姿だといえるでしょう。 そして、宗教というものは、絶えず、政治の権力の正統性(正当性)を示すための、道具としても利用されてきました。 そこに、現在いまだ残っている、地域紛争の火種がばら撒かれたといっても過言ではありません。 ユダヤ教とキリスト教。キリスト教とイスラム教。仏教とヒンドゥー教。神道と仏教。そのほか、現地宗教と国教など。あげればキリがないほど、これが原因で、なおも、誕生したばかりの宗教の教えとは真逆の、殺戮や異端の徒としての弾圧と抑圧が続いてきている例がそれを示しています。 このような、宗教紛争が、時の為政者により、政治の道具として扱われたことがそもそもの悲劇の始まりだったのです。 ------------------------------------------------- 話を、ダ・ヴィンチ・コードに戻しますと、現存する、本流(といわれている)のキリスト教は、キリストの死後(1世紀末から2世紀)に誕生したものです。そして、その弟子たちが次々と編纂した、キリストの言葉に脚色し、伝えていったわけです。 もちろん、キリストは実在の人物であり、彼が当初、人間であることが記録されていました。 しかし、それは、必ずしも人間らしい人間として後世には残らず、徐々に神聖化され、いつのまにか神格化したのです。 そして、これはキリストは神か人間かという議論として、現代でもなお多くの論者が数多います。 今の世だからこそ、『キリストは人間だ』といえますが、ダ・ヴィンチ存命中のルネサンス期にはそれはタブーでした。 法王が絶対であり、聖書が絶対であり、全ての科学(ここでは自然科学のみという意ではなく、人文科学、社会科学、自然科学の総称としての)が、聖書に基づくものであるという考えが主流でした。なぜなら、そういうように、「神聖で犯すべからず」なものだったからです。 とある者は、天がまわっているのではなく、地がまわってると唱え、異端者と扱われました。無論、この説に真っ向否定する意見もあります。異端者として扱ったのはくまでも、為政者の権力闘争の一部として行われたものであるなどです。 それも、いずれにせよ、少なからず、時の為政者と宗教との間には密接な関係が描かれていました。 すなわち、それは、聖書にあらざるものは全て邪教、異端の思想として扱われた事実の裏づけとなるでしょう。 それにより、魔女狩り、魔女裁判が行われたともいえるでしょう。 そして、この、魔女狩り、魔女裁判という文字にあるように、魔女という言葉がキリスト教には登場します。 ------------------------------------------------- この、魔女という言葉が、すなわち、ヨーロッパにおける、女性を蔑み、男性優位の社会を形作った原型といえるのです。 ギリシャ・アテネ神話の時代、神は男神と女神がいました。 しかし、キリスト教の時代となったときに、女神はこの世から消えたのです。 女は穢れているという論理で。 そしてそれは、キリストの一番弟子であり、十二使徒のリーダー格である、聖ペトロとの確執だと、後の学者は論じています。 誰との確執か?そう、娼婦とされてきたマグダラのマリアとの。 この出来事を、キリスト死後、キリスト教が誕生し、1000年後の時代に、レオナルド・ダ・ヴィンチにより、時の為政者の目を欺く形で異を唱えたものだと推察します。 そして、なによりも、レオナルド・ダ・ヴィンチは、アンチクライスト=非キリスト教信者だとも伝えられているのです。 事実、ダ・ヴィンチは、洗礼者ヨハネを預言者とし信仰するマンダ教であったのではないだろうかとする説があるのです。 では、なぜ、彼の残した作品の多くに、キリスト教の、いわゆる宗教画があるのでしょうか? そこには、時の為政者(と、ローマ教会派などのキリスト教)から、目をそらさせ、そこに見た目上ではなく、精神的なメッセージを込めたからだといわれているのです。 それこそが、この、映画や、小説から世に出現した実在する『ダ・ヴィンチ・コード』なのです。 実は、この研究をしている二人の学者が、この映画『ダ・ヴィンチ・コード』にも出演していました。(隠れキャラなので気がつく人も少ないでしょう) その二人とは、リン・ピクネットとクライヴ・プリンスです。 『The Templar Revelation(和名:マグダラとヨハネのミステリー二つの顔を持った イエス)』の著者の二人です。暇な人は探してみてください! さて、そんな小ネタはおいといて(笑) この『The Templar Revelation(和名:マグダラとヨハネのミステリー二つの顔を持った イエス)』は、まさに、ダン・ブラウンが描いた『ダ・ヴィンチ・コード』の、小説部分を取り除いた、純粋な権威ある論文なのです。 彼らの主張を、端的に表すとすれば『異端の娼婦とされてきた、マグダラのマリアの、イエスにとっての存在意義と、ダ・ヴィンチが遺した作品から読み取れうる、聖杯の謎』の解明と論証といえるでしょう。 そして、それにまつわる『テンプル騎士団の忌まわしき弾圧と、その行方』の研究の成果です。 ------------------------------------------------- 彼らの主張である、マグダラのマリアとは、ローマ教会のいう、娼婦ではなく、むしろイエスの伴侶であるというのです。伴侶といえば結婚ですが、むしろ、愛人(=アガペとエロスの両方を持つ)であるという状態だったというのです。 その根拠として、イエスは、ユダヤ教であり、イエス自身は、そのユダヤ教を元に、自らの教えを弟子たちとともに伝え歩いていったのです。 その当時、ユダヤ教には、男性のみならず、女性にも寛容で、同等の扱いをうけ、また、結婚と言うものはごく当たり前のものだったのです。 もちろん、信者や聖職者を問わずに。 ユダヤ教は、結婚を重要なものとし、神聖なるものというものですから、マグダラのマリアとともに、イエスが婚姻関係ないし、それに準ずる状態であったのではと考えられます。 事実、その事が記された福音書があるというのです。 さて、この福音書ですが、新約聖書には4つの福音書があります。(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書) しかし、これは、その後の聖書編纂の時に都合のよいものだけをより分けたものであるというのです。 なんと、イエスが、弟子とともに残したとされる福音書は60にも上る数があったとされています。しかし、それが、後に、異端のもの、邪教のものということで焚書されたり、闇へと葬られたのです。 では、なぜ、焚書や闇へ葬られたのかといえば、キリスト教の教会を立ち上げたといわれる聖ペトロの存在があるのです。 聖ペトロは『なぜ、イエスさまは、われらを平等に愛しているはずなのに、一人の従者のみを特別に扱うのですか?』と疑問を投げかけた、といわれています。 そう、そのイエスが特別に扱った従者、それがマグダラのマリアなのです。 イエスの十二使徒としてリーダー格であるペトロが、イエスの教えを後に伝えたことは歴史の示す通りでしょう。 そこに、マグダラのマリアに対して、激しい嫉妬心があったのやもしれません。 いや、「使徒たるものが、そのような煩悩にまみれた発想をするはずがない」と反論する人もいるでしょう。 その真実はわかりません。ただ、この『The Templar Revelation(和名:マグダラとヨハネのミステリー二つの顔を持った イエス)』の著者であるリン・ピクネットはそう考えてもよいとしています。 そして、その考えを解く鍵が、ルネサンスに登場したレオナルド・ダ・ヴィンチの作品にあると、仮説を立てたのです。 そして、それにつながるテンプル騎士団の存在。突然のローマ教会からの弾圧、惨殺。生き残った残党の行方、それにまつわる伝承。邪教として扱われた、キリスト教以外のキリスト教の存在。それがリンクすることによって、一つの壮大なストーリーへとなったのです。 ------------------------------------------------- 最後に改めて言います。 『ダ・ヴィンチ・コード』は非常に優れた小説であり、映画です。 最後まで、読者、視聴者の興味を引き起こす素晴らしい作品です。 しかし、そこに描かれているもの全てが、現実ではなく、また虚構でもないのです。 謎めいたものを解くという、そして、実在する歴史とが絡み合う作品である『ダ・ヴィンチ・コード』 予備知識を持つことで、さらに奥深く、大変おもしろい作品だと思います。 批判めいたことを言えば、2時間という尺は短いですね。上中下の3部作でもいいくらいです。多分だれてくると思いますが(笑) あとは、最後のエンディングにつながる部分のもって行き方は、なんだかなぁと。 こじつけに近いのが残念ですが、一見の価値はあると思います。 ウィットに富んだレトリックが隠されているので、それを見つけて楽しむという見方もできますよ。 久しぶりに、脳みそ使う映画でした。 ------------------------------------------------- ※一部、教会、キリスト教、ユダヤ教などの表記において、正確ではない表記があります。 理由として、対象が、専門家ではなく、中学生にもわかってもらえるように、なるべくわかりやすい表記を意図した部分があるからです。 明らかな誤字、脱字などがあればご指摘のほどお願いいたします。 あ、そうそう、1969年にカソリック教会は、マグダラのマリアを娼婦だという見解が、誤りであることを表明したらしいです。 ※※参考文献: 小説『ダ・ヴィンチ・コード』ダン・ブラウン著 角川書店 DVD『ダ・ヴィンチ・コードの謎』ジェネオン エンタテインメント社 Wikipedia ※※※原作の小説と比べ、映画のほうは若干内容が変更されています。(シネマライズされた小説の運命ですね)
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